それは大学2年生のとき、1年間講師を務めた大手塾を辞め自ら学習塾を立ちあげたのでした。
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松村博史
大阪市内の自宅から
当時は学生起業なんていう洒落た言葉もないころでした。
なんとなく見ていたテレビで青年実業家という人が2人紹介されましたが、その姿がちょっと太めの40代男性で、青年と違うやんと思いながら見ていたことを思い出します。
そのくらい世の中は起業に関して敷居が高く自分事ではない時代でした。
経験を蓄積する
私は学生時代のアルバイトとして塾講師と家庭教師を選びました。
南大阪では当時最大手の塾で、数学と理科を担当し、1年間生徒さんとともに学びました。
塾では成績順にクラス分けがされていました。
私は成績の良いAクラスで教えている時よりも、成績の悪いDクラスで教えている時のほうがやりがいを感じていました。
なぜならAクラスの生徒たちは、私が教壇でテキストを読み上げているだけで勝手に賢くなっていきます。
それに対してDクラスの生徒たちは説明してもなかなか理解してくれませんので、私なりに創意工夫をして一人でも成績があがることが楽しかったのです。
月の満ち欠け、金星の満ち欠けの授業では模型を作ったりしました。
熱血先生だったんですね。
おかげさまで教室に10数人いた講師の中でも人気のあったほうだと思います。
独立の心が芽生え、行動に移す
あるとき塾はDクラスの子供たちを重要視していないことに気づきました。
今では分かりますが塾の経営としては当たり前のことで、塾から成績のいい高校に合格できる人数が塾の良し悪しのバロメーターになります。
自然とAクラスの生徒たちにまたAクラスにあがりそうな生徒たちに力がはいるわけです。
それではDクラスの生徒達と親が不憫だと感じ、この子たちを少人数制で面倒の見られる場所を作りたいと思うようになったのです。
そして大学1年生の3学期の間に教材会社にコンタクトをとり、人気のあった国語と社会を教えられる先生を仲間にし、教えるための部屋を契約し、チラシを作り生徒を集めたのでした。
そのために講師をしてためた貯金を使って。
順調とは言えないスタート
「ここまで準備はしたけれど、最初に生徒が10人集まらなければ計画は中止しような」といって始めたことでしたが、説明会には10人弱のお母さんが来て下さり、全員が子どもたちをこの塾に通わすと言ってくれました。
兄弟姉妹もいたのでギリギリ10人でのスタートでした。
だけど10人、収入から家賃を始めとする支払いをして二人の講師で分けると、アルバイト講師をしていた時の半分以下になってしまいます。
いったい俺らの時間給はいくらだ?ってな話です。
生徒はだんだん増えて
そこから一人ひとりの子どもたちとお母さんに真摯に接し、少しずつ紹介をもらっていくことで、夏休みまでの4ヶ月で40人くらいの生徒になっていました。
当時月謝は封筒で集金することが一般的でした。
夏季講習のときには教室に集まったお金が100万円を超え、銀行に行くため人生で始めて大金を持って往来を歩いたときは緊張しましたね。
夏休みの間はずーっと夏季講習で、2人の講師で朝から晩まで40人の生徒と学びます。
生徒は交代しますけど、講師は休みなし。8月の20日ころから授業の合間に栄養ドリンクを飲んでいました。
コンセプトは補習塾だったのですが、中には大手塾でもAクラスに入れる生徒もいたり、皆で刺激し合って良い塾でした。
始めての受験も、1年目の塾としては上出来で、生徒さんたちを送り出すことが出来ました。
おかげ様で塾は軌道に乗り、同級生や後輩を講師に雇いいれ、私が大学を卒業してしばらくまでの3年とちょっとの間続けることができました。
軌道に乗ってからもいろいろとあったのですがそれは又の機会に。
今の仕事も根底は同じなんだ
これを書いていて気づきました。
私はできていない方の支援をすることが好きなんだと。
これ、経営者としてどうなんでしょ。
金融ならばお金を持っている人にさらに有利になるサービスをしたほうが絶対に儲かる。
でも私が株を始めとする金融商品の自動売買のサービスを仕事に選んだとき、まっさきに浮かんだのは40代サラリーマン妻と子供がいて、漠然と将来の収入の不安を抱えているという人物像でした。
この人達を助けたい。
これが一番最初に自分の心の底に湧いた動機なんです。
なんか根っから支援することが好きなんじゃないかと思います。
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